沖縄 演劇人 しに怖い夜

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島守のうた 演劇No.1

島守のうた

平田オリザ

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line@

演劇No.1 LINE@始めました

演劇No.1は今年で二年目ですが、 今日まで、とっても多くの作品をお届けすることが出来ました。 これも役者さんや、各劇団さんのご協力のおかげです。 そして演劇No.1をご覧になった方から、 沖縄でこんなにたくさんの公演があるなんて知らなかった、 劇団があるなんて知らなかった、役者さんがいるなんて知らなかった、 と、直接お伝えして頂けたり、またメールやSNS等で数多くのお声を頂きました。わが街の小劇場や、 アトリエ銘苅ベースといった劇場に関しても同様に。 活動している人も、劇場も、演劇関係者にとっては当たり前に 知っていることばかりですが、演劇と無縁で生活されている方々には、 まだまだ知って頂けていないというのが現状です。 その現状がある限り、演劇No.1の使命は消えません。 「まだ演劇を知らない多くのかたへ演劇をお届けする」 この使命のもと、今後もより一層、「どうすれば届くのか?」を 真剣に考え、1つ1つ実践していきたいと思っています。 さぁ!今回もその想いからのアイディアですが、 演劇No.1のLINE@をつくりました。 主に演劇情報をお届けする「演劇ファン」のためのアカウントと 演劇に興味があって、エキストラでもいいから 参加してみたいという「演劇人」のためのアカウント、 2つ作りましたので、いずれかにご参加して頂けたらと思います。 また、LINE@では、メッセージに対して返信したり、 他の参加者へメッセージを送るなどは出来ないように なっていますので、ご理解頂けたらと思います。 では、沖縄演劇界をさらに盛り上げるべく、 演劇No.1LINE@にて、{友達追加}をして頂けたら幸いです。演劇No.1 役者or(役者希望の方)リンク line://ti/p/@mqa9025i QRコード 演劇No.1 Blogトピック(ファンの方)リンク line://ti/p/@klc9613s QRコード
kishimoto

岸本尚泰

いよいよ明日開演!! 演劇No.1イチオシ俳優 {岸本尚泰} masayoshi,kishimoto 今回は役者としてではなく 演出としてチームを まとめています。 浦添ゆいゆいキッズシアターの 子供たちと、 岸本さん始め、周りの大人達が 時間の許す限り情熱を注ぎ込んだ作品です! 演劇No.1も演出の岸本さんの 想いを一人でも多くのかたに お伝え出来ればと思います。 以下、岸本さんの 今作品にかける想い 6月23日 それは沖縄戦の組織的戦闘が終結した日とされ 当時、アメリカ施政権下の琉球政府は この日を『慰霊の日』と定めた。 1972年の本土復帰後は日本の法律が適用となり、慰霊の日は法的根拠を失う。 1974年「沖縄県慰霊の日を定める条例」を制定。 改めて6月23日を『慰霊の日』と定めた。 *【我が県が、第二次世界大戦において多くの尊い生命 財産及び文化的遺産を失った冷厳な歴史的事実にかんがみ、これを厳粛に受け止め 戦争による惨禍が再び起こることのないよう 人類普遍の願いである恒久の平和を希求するとともに戦没者の霊を慰めるため】 『Peaceful~』のことを書く前に 少しだけ過去の思い出を語りたい。 仲西小学校に入学した頃 新校舎が完成しましたがグラウンドは古く、取り囲む塀にもコケが覆っていた記憶がある。水はけが悪く 雨が降ればずっと水たまりが出来るようなグラウンドで、体育の授業をしていると 友人が鉄の小さな塊を見つけた。白髪混じりのおばあちゃん担任が「鉄砲の玉だね」と言ったので自分含め男子数人は興奮し、休み時間もずっと水たまりを覗き込んでは小さな鉄の塊を探していた。 他のクラスの担任は若く活発な先生に対し、1年1組の担任だけは たまに怒鳴る白髪混じりのおばあちゃん先生だった。隣のクラスが羨ましかったけど こっちの方が何だか温かみがあった記憶がある。 時折 戦時中の話しをしてくれて、涙を流すこともあった。今、そんな担任はなかなか存在しないのではないだろうか。貴重な体験だったと今では感謝している。 小学4年生まで慰霊の日が近くなると、名護に住んでいる『おばぁー』がバスに乗ってやって来る。 そして家族に連れられ 平和記念公園と ひめゆりの塔に行き、壁一面に刻まれた名前の前で友達を探していた。複数の顔写真のパネルが架けられてある壁の前で立ち止まり、1人の女性の写真を手で触れ泣いていた。 小学4年生の後半から少年野球を始めたので、高校3年生まで慰霊の日は部活のため『おばぁー』と過ごすことはなくなった。そのかわりお昼の12時になると決まって 仲間と黙祷をしていた。 その『おばぁー』はまだ元気であるが、認知症がはいり施設でお世話になっている。 今思えば、もっと、いろいろ話しが聞きたかった。 大学で鹿児島に行ったので『特攻隊』を知るきっかけとなった。 知覧にも行き、隊員が家族に残した最後の手紙の文章表現には驚き、年齢もさほど変わらない大人びた文章に「俺って まだまだガキだな・・・」って思わされた。 そして紆余曲折を経て わたしは就職はせずに、役者になっていた。 沖縄でたくさんの舞台に立たせて頂き、その中には沖縄戦の話も いくつかあり、沖縄戦を知るため本を読み、映画やドラマを役作りのために観ていた。すると、あることに気が付く、それは沖縄では日本兵が悪でアメリカ兵が優しかったという表現の多さ・・・だった。 たしかに、証言にあるように 日本兵は一般人を巻き込んでおきながら手榴弾を渡し自決しろとか狂気でしかない。壕で隠れている民間人を追い出し『鉄の暴風雨』にさらすとか国際的にも非人道的であり、泣いている赤子を アメリカ兵に見つかるから殺せと母親に強要し「殺せないなら俺が殺す!」と銃剣を突きつける。 もはや、日本兵は殺人鬼であり沖縄の人々は日本兵に苦しめられたという沖縄戦の描かれ方、ここまで読んで 気分を害される方がいたり、誤解を生んでしまうような表現を自分はしているかも知れない。まだまだ勉強不足ですが これが演劇をやって気づいたことで、そこから感じたことが疑問へとつながっていったのだ。 経験者であれば それが事実であり、恐怖の体験だったことだろう。食糧を与え、水を与え、子ども達にチョコを配ったアメリカ人は優しかったでしょう。 ところが、その『鉄の暴風雨』を降らせたのは優しかったアメリカ人であり、戦後 土地を強制接収し そこに住む沖縄人を追い出したのもアメリカ人。そして、地位協定の名のもと...